最終防衛ラインって、フラグですよね?
絶対国防圏とか… 突破されて本土空襲が始まるし。
怪獣映画「ガメラ2 レギオン」(1996年公開)で、群馬/埼玉県境の利根川に設定した最終防衛ラインとか…
いや、これは防衛に成功してるよ!フィクションですけど。
東京都葛飾区と埼玉県三郷市との都県境には、中川の旧流路を活用した小合溜井という、農業用水の貯水池が広がります。
都側の岸辺には都立水元公園が、県側の岸辺には県立みさと公園が整備され、まるでヨーロッパかどこかと見まちがえそうな美しい水辺の景色が広がります。
小合溜井は、洪水を防止する遊水池の機能も兼ね備えていました。このため、溜井の整備と同時期に、東京都側には、桜堤(桜土手)という堤防も築かれました。
ここには、桜堤に関する説明板もありました。
この堤防は、上流である埼玉県側からの氾濫流が、下流の東葛西領に侵入することを防ぐためのものでした。
武蔵国では、水利と水防に関して共同で活動する村々をまとめた地域単位のことを、領と呼びました。東葛西領は、現在の葛飾区と江戸川区のうち、中川の東側にあたります。
つまり、桜堤が決壊すると、氾濫流は区部の東側に浸水被害をもたらすこととなります。まさに、帝都東京の最終防衛ラインですね。
明治43年の大洪水では、桜堤は氾濫流を食い止め、下流の浸水被害を防ぐことができました。
東京だけで150万人の被災者を出し、荒川放水路建設の契機ともなった、大災害であったにもかかわらず、です。
しかし、説明板にあるとおり、昭和22年9月のカスリーン台風では、「東京最後の望みの綱、桜堤」は決壊してしまい、氾濫流は葛飾区、荒川区、江戸川区の広い範囲を水没させるのです。
それでは、氾濫流はどこから桜堤までやって来たのでしょうか?
カスリーン台風襲来の一か月半後に、現在の埼玉県久喜市栗橋付近を撮影した空中写真をご覧ください。
この付近の利根川は、東遷事業の初期に直線的に開削された新川通と呼ばれる河道です。新川通の下流部では、渡良瀬川が合流し、流量が増えます。さらに利根川にかかる鉄橋の橋脚に引っかかった漂流物による堰上げにより水位が上昇し、9月15日20時ごろにはすでに堤防より溢水していました。
そして翌16日0時過ぎには、写真の通り右岸堤防が約340mにわたって決壊しました。
ここから流れ出した氾濫流は、下の図の通り、中川流域の低地を南へ下り、55時間後に桜堤にやってきました。
実は、この図4の洪水走時線のアニメーションもあるので、ぜひ国土地理院のホームページに行って、ご確認ください。図4に赤字で記載の通り、約7時間も氾濫流を貯留した、桜堤の奮闘が視覚的にわかりますよ。
桜堤が時間稼ぎしている間に、東京都は氾濫流への反撃作戦を立案しました。
江戸川堤防を掘削し、氾濫流を江戸川に流してしまおうというのです。
作戦の発想は良かったのですが…
作戦の方法は、基底部の幅50m、高さ5mの堤防を人力で掘削するというもので、時間がかかりそうな…桜堤は持ちこたえられるのでしょうか?
作戦のタイムラインは以下の通りです。
18日夕方 氾濫流、桜堤到達
夜間 人力にて開削開始
19日02時 桜堤決壊、氾濫流は都内へ侵入
05時 進駐軍騎兵第一師団第八技術中隊到着、爆破作業開始
15時 江戸川堤防開削に成功
21日未明 氾濫流、江戸川区船堀の新川堤防にて停止
というわけで、桜堤の奮闘むなしく、最終防衛ラインは突破され、氾濫流は都内へと侵入してしまったのです。
最後に、桜堤決壊口の被災前後の航空写真を比較して見てみましょう。
被災後は、決壊口に池ができています。これは、洗堀によって作られる「落堀」です。桜堤決壊時の激しい水流を物語っています。
また、爆破した江戸川堤防は、何らかの形で仮復旧されていることも見て取れます。
(参考)
・内閣府 防災情報のページ 災害教訓の継承に関する専門調査会