令和5年は、多摩地域が東京府に移管されて130年にあたる、節目の年でした。
このことを踏まえて、東京都公文書館では、企画展示「東京府文書に見る多摩と東京―多摩地域東京府移管130年―」を、10月20日から12月19日まで開催していました。
歴史的な公文書など、充実した展示内容により、多摩地域が東京府に移管された経緯を分かりやすく伝えていました。
来館者には立派な小冊子までいただけたうえで、しかも入場無料!さすがは東京都です。
せっかくなので、なぜ多摩地域が東京府に移管されたのか、地図を使って、簡潔に説明したいと思います。
明治4年の廃藩置県後、現在の多摩地域は大部分が東京府に、ごく一部が入間県(現在の埼玉県西部)に所属することとなります。
しかし、同年中に、東京府から神奈川県に所属替えとなりました。
当時、神奈川県が管理する外国人遊歩区域が、横浜港を中心とした半径40㎞に設定されていました。この区域に多摩地域の一部が含まれているため、との理由でした。
その後、多摩地域は、東、西、南、北多摩郡の4つに分割のうえ、東多摩郡(現在の杉並区と中野区)は東京府に復帰したため、西、南、北多摩郡のいわゆる“三多摩“が成立します。
さて、東京の飲料水は、江戸幕府による厳しい維持管理がなされてきた玉川上水に拠っていました。しかし維新以降、管理が行き届かず、明治19年のコレラの大流行を招いてしまいました。
また、東京府が要請し続けてきた多摩川上流部の水源涵養林の伐採禁止について、明治24年に神奈川県が解除してしまいます。
これらを契機として明治25年9月、東京府と神奈川県は内務省に対し、三多摩を東京府の管轄とするよう上申します。
東京府は当初、水源管理上必要な西多摩郡と北多摩郡だけの移管を求めました。
しかし神奈川県は、三多摩から衆議院議員を2名選出していること、三多摩の歴史風俗の一体性を主張し、南多摩郡も移管するよう主張しました。
この背景には、自由党の地盤である南多摩郡を神奈川県から分離したいという、思惑もありました。
自由民権運動を推進し、県政に影響力を持つ自由党は、当時の県知事と対立していたのです。いかに自由党が強かったかがわかるエピソードとして、帝国議会で移管法案審議中の明治26年2月25日前後に、西多摩郡、南多摩郡の町村長や助役が一斉に辞任する事態も発生しています。
東京府と神奈川県による上申を受け、同年12月に政府は境域変更法案を閣議決定しました。このなかで、移管の重要性として3点が挙げられています。
・玉川上水の一括管理
・多摩川の伝染病対策
・明治22年開業の甲武鉄道の利便性と経済的つながり
なんと、甲武鉄道つまり現在のJR中央線が、最後のダメ押しになっています!
確かに、三多摩と区部をつないでいますね。
そして明治26年4月1日に、三多摩は東京府に移管され、現在にいたります。
ちなみに、のちに保谷市となる、保谷村の東京府編入は、明治40年です。