すごいぞ 関東平野

関東平野の興味深い地形を、webGISを活用したOSINTの手法であぶり出します

八王子千人同心が駆け抜けた街道 武蔵高萩の日光街道杉並木

タイムスリップしたみたい…?

 今回は、埼玉県日高市にある、武蔵高萩駅に来ました。川越駅からJR川越線で西に4つ目の駅です。

 現在は鉄骨造の橋上駅舎に建て替えられましたが、旧駅舎にはなんと貴賓室がありました。昭和天皇陸軍航空士官学校(現在の航空自衛隊入間基地)に行幸する際に、当駅をご利用されたのです。

ホームの高さにご注目

 普通の地上駅では、「線路の高さ≒地面の高さ」なので、駅前ロータリーからプラットホームへの移動は多少の段差が生じます。

 しかし当駅は写真の通り、駅前ロータリーとプラットホームの間に段差はありません。原宿駅の宮廷ホームと同じように、賓客に上下移動をさせないように配慮した、格式の高い造りです。

 

 さて、北口(あさひ口)から、国道407号線に向かいます。

明治12年開局の旧高萩郵便局

 レトロな旧郵便局舎を横目に、国道を北に向かいます。

 

小畔川を渡る(写真はバイパスから上流方を撮影)

 この小畔川の源流は、北欧のどこか(または、ひとりひとりの心の中)です。

 なに言ってるの?と思われるかもしれませんが…

 ちなみに源流は、武蔵高萩駅南口(さくら口)からバスで25分ですよ。

 

 おなかがすいてきました。

餃子のはながさ 日高店 でホワイト餃子ハイボール

YOUは何しに武蔵高萩へ?

 …お腹も満たされました。

 店を出てすぐ、3キロ以上まっすぐ続く杉並木の入口になります。

杉並木周辺の地図(地理院地図を加工)

 地元では、「日光街道杉並木」で知られていますが、五街道日光街道ではなく、「日光脇往還」です。

 武田遺臣に由来する八王子千人同心は、徳川家の旗本でありながら、農地の所有を許された半士半農の存在です。もともと八王子城下や甲武国境警備を担ってきましたが、世情が安定すると日光の社寺を50日交替で警備にあたるようになりました。これを日光勤番と言い、幕末まで続きます。日光脇往還は、この日光勤番のために整備されました。

 

道幅は、当時の基準(2間≒3.6m)を上回る、4間(約7.2m)くらいかな?立派だ

並木には、緑陰により旅行者を保護するだけではなく、道路幅の確定という意味も

 この写真だけなら、江戸時代にタイムスリップしたみたいですね。
 さて、駅に戻りますか。せっかくなので、南口(さくら口)に向かいましょう。

 昭和32年ソメイヨシノの苗が植えられた、全長約100mの埼玉県道181号線武蔵高萩駅停車場線は、春になると桜の花のトンネルになります。さくら口というのも、そこから名づけられたものと思われます。

 もしかしたら、桜の花を見られるかも。

 

えっ…

 

オススメ記事の一覧

サイトマップというほどでもないけれど…

 是非、ご覧いただきたいのは、以下の記事かなぁ?

 

 ・スコッチ・ウイスキーに欠かせないピート、千葉市内で採掘していた?

 ・最終防衛ライン 突破されます! カスリーン台風と桜堤

 ・多摩地域は、どうして東京都?

 ・悪徳コンサルタントに翻弄された水戸藩!? 紅葉運河と大貫運河

 ・戦国最大の山岳戦!? 「三増峠の戦い」を地形から読み解く

 ・新宿から南アルプスが見えるって本当!?

 

 他にも、記事がいろいろありますので、見て行ってくださいな。

 更新頻度が低いのは、ご容赦くださいね。

ローコストで高速道路を建設? 東北自動車道の低盛土区間とは

またつまらぬものを切ってしまった…

 

 お金はあまり用意できないけれども、家が欲しい!

 そんな人の夢をかなえるローコスト住宅。注文住宅の半分くらいの坪単価で建てられ、夢がぐっと実現に近づきます。

 材料費や人件費、宣伝広告費を抑えるとともに、建築資材の均質化によって工場制作の割合を高め工期を短縮するなどの工夫により、低価格を実現しています。

 

 さて、今回のテーマは高速道路です。

 

 1965年に名神高速道路が、1969年には東名高速道路が全線開通し、東名阪の三大都市が高速道路で結ばれました。

 以降、全国で整備が進められ、国土交通省の道路データブック2023によれば、2023年度末時点での高速自動車国道予定延長11,520㎞のうち供用延長は9,196㎞と、その80%が完成しています。

高速自動車国道とは…東名高速とか東北道など、いわゆる高速道路。首都高のような都市高速、しまなみ海道のような本州四国連絡橋は含まないよ)

 

圏央道アクアライン高速自動車国道ではない(NEXCO東日本「関東・長野エリアの高速道路開通予定区間」より)

 

 しかし、1970年台初頭は、高速道路建設の波が全国に広がるとともに、高速道路網の早期整備が求められました。したがって、建設にあたっては、ローコスト化が求められたのです。

 東北自動車道で最初に開通した岩槻IC - 宇都宮IC(1972年)では、ローコスト化の手法として、低盛土方式が採用されました。

 

 文字通り、盛土を低くする低盛土方式は、盛土材の掘削、購入といった調達費用や、その運搬費を抑えられます。切り崩す山もない関東平野のど真ん中では、盛土材の入手も大変です。

 さらに、買収する用地の幅も減らせます。法面の分を買収しなくて済むからです。

盛土をやめると、買収する用地は減らせる

 しかし低盛土方式は、維持管理上の問題などから本格採用には至りませんでした。

低盛土方式は、アンダーパスの雨水排除問題が生じる


 それでは実際に、岩槻IC付近の低盛土区間を見てみましょう。ICから北へ2.5㎞ほど進んだ場所です。

低盛土方式の区間はココだよ(地理院地図に加筆)

 東北道と国道122号「蓮田岩槻バイパス」は、台地から坂を下り、しばらく綾瀬川の氾濫原を走り、坂を登ってふたたび台地上に戻る線形となっていることがわかると思います。

 縦断面図を作成しましたのでご覧ください。

縦断面図(地理院地図よりcsv出力し加工)

 東北道は、国道に比べて勾配が緩和されていますが、それでも下り坂の直後に上り坂となっていることがわかります。いわゆる「サグ」ですね。

 盛土で氾濫原を通過すれば解消できたはずなのですが、ローコスト化によりサグが生じました。

 サグが生じると、どうなるのでしょうか?

サグは渋滞の原因となる(NEXCO東日本企業情報サイトより)

 上り坂やサグでは、無意識に速度が低下する車がいます。交通量が多い状態では、後続車は車間距離を保とうと次々ブレーキを踏んでしまい、最終的には著しい速度低下や渋滞となります。

 

 それでは、この場所は本当に渋滞ポイントなのでしょうか?

「E4 東北道の渋滞ポイントマップ」(NEXCO東日本ドライバーズサイトより)

 上り線も下り線も、渋滞ポイントですね…。

 

 ローコスト化により、別の社会的なコストを結果的に支払うこととなりました。

 

(参考資料)
「高速道路50年の歩み」 『高速道路五十年史』編集委員会

スコッチ・ウイスキーに欠かせないピート、千葉市内で採掘していた?

それ、本当にスコッチ? スペルが違うんじゃない?

 

 ウイスキーはお好きですか?

 ロック、水割り、ハイボールと、いろいろな楽しみ方がありますね。

 この記事を書きながら、ジャック・ダニエルのコーラ割りを飲んでいました。茹でて塩振っただけのジャガイモが、とてもおいしかったですよ!

 

 ウイスキーの製造方法を簡単に説明しますと…


 1 大麦やトウモロコシなどの穀物を発芽させ、麦芽にします。麦芽には、デンプンを糖に変える酵素が含まれています。
 2 麦芽に熱を加え、発芽を止めるとともに、乾燥させます。
 3 乾燥した麦芽を温水と撹拌したのちにろ過し、糖分を含んだ麦汁を作ります。実は、ここまでの製法はウイスキーもビールもおおむね変わりません。
 4 麦汁に酵母を投入し発酵させます。糖分はアルコールに変化します。
 5 蒸留を繰り返して度数を上げたのち、樽で数年程度熟成させます。この過程で、ウイスキー特有の香りや色が発現します。

 

 スコットランドで作られる、スコッチ・ウイスキーの特徴として、特有のピート香が挙げられます。麦芽を乾燥させるための熱源として、ピート(泥炭)が使われました。

 

 ピート(泥炭、腐植土)とは、石炭の一種です。ただ、成立までの時間が短いため、炭化度は低く、含水率も高くなっており、燃料としては低品質なものです。

 

 高緯度のため冷涼なスコットランドで簡単に手に入る燃料と言えば、湿地を掘れば出てくるピートだったのです。

 さて、そんなピートですが、実はそんなに珍しいものではありません。冷涼な湿地など、植物遺体の分解が遅い場所であれば成立します。

 

 燃料事情の悪化した戦後すぐの昭和22年、東京都内の家庭に配給する豆炭の原料として、現在の東京大学検見川総合運動場でピートを採掘しました。その際、縄文時代の丸木舟なども発掘され、のちの大賀ハス(開花に成功した弥生時代のハス、千葉市の花)の発見にもつながりました。

 

泥炭採掘現場はココだ(地理院地図に加筆)

 

 というわけで、千葉市内なので、例のデータベースからボーリングデータを引っ張ってきましたよ。千葉市役所さん、ありがとうございました。

 

地下水位以下の場合、泥炭層は維持できる(千葉市役所提供ボーリングデータに加筆)

 採掘場所から西へ500mの花見川区保健福祉センターのボーリングデータを見ると、厚さ約2mの腐植土(=泥炭、ピート)層が存在します。

 また、自噴井の記事で取り上げた、千葉市中央区の都川水の里公園は、採掘場所から10km以上離れていますが、よく見れば腐植土層がありますね。

 この2か所は、縄文時代から弥生時代にかけて湿地でありつづけ、堆積した植物遺体は、分解が進まずピート層になりました。

 

 自噴井の記事はコチラ

  ↓

amazingkantoplain.hatenablog.com

 

 比較対象として花園公民館のボーリングデータも上げておきます。採掘場所から南西に、こちらも500mほどです。しかし、ここは当時から台地上ですので、植物遺体は沈水することなく速やかに分解されるため、ピート層は成立しませんでした。

 

 というわけで、千葉市内に限らず、条件を満たせば関東平野のあちこちでピート層は見つかります。

 だからといって、ピート層の発見は、特段良い話でもありません。不等沈下を引き起こすなど厄介な地層ですし、仮に採掘しても燃料としては低品質です。

 

ちょっと! いくら何でも飲みすぎですよ!

 

最終防衛ライン 突破されます! カスリーン台風と桜堤

消滅するのは 台風か 下町か  ’47年夏 堤防決壊

 最終防衛ラインって、フラグですよね?

 

 絶対国防圏とか… 突破されて本土空襲が始まるし。

突破されると、本土がB29の行動半径内に入る(防衛研究所ホームページより)

 

 怪獣映画「ガメラ2 レギオン」(1996年公開)で、群馬/埼玉県境の利根川に設定した最終防衛ラインとか… 

 いや、これは防衛に成功してるよ!フィクションですけど。

 

 

 東京都葛飾区と埼玉県三郷市との都県境には、中川の旧流路を活用した小合溜井という、農業用水の貯水池が広がります。

 都側の岸辺には都立水元公園が、県側の岸辺には県立みさと公園が整備され、まるでヨーロッパかどこかと見まちがえそうな美しい水辺の景色が広がります。

冬の小合溜井 ホントにここは東京なのかと思いましたよ

 小合溜井は、洪水を防止する遊水池の機能も兼ね備えていました。このため、溜井の整備と同時期に、東京都側には、桜堤(桜土手)という堤防も築かれました。

傾斜量図で見ると、よくわかる桜堤(地理院地図を加工)

 

写真1 江戸川右岸堤防から分岐する桜堤

 ここには、桜堤に関する説明板もありました。

江戸川河川事務所が設置した説明板

 

写真2 水元公園から見た桜堤 公園内より高くなっている

 この堤防は、上流である埼玉県側からの氾濫流が、下流東葛西領に侵入することを防ぐためのものでした。

 武蔵国では、水利と水防に関して共同で活動する村々をまとめた地域単位のことを、領と呼びました。東葛西領は、現在の葛飾区と江戸川区のうち、中川の東側にあたります。

 

 つまり、桜堤が決壊すると、氾濫流は区部の東側に浸水被害をもたらすこととなります。まさに、帝都東京の最終防衛ラインですね。

 

 明治43年の大洪水では、桜堤は氾濫流を食い止め、下流の浸水被害を防ぐことができました。

 東京だけで150万人の被災者を出し、荒川放水路建設の契機ともなった、大災害であったにもかかわらず、です。

 しかし、説明板にあるとおり、昭和22年9月のカスリーン台風では、「東京最後の望みの綱、桜堤」は決壊してしまい、氾濫流は葛飾区、荒川区江戸川区の広い範囲を水没させるのです。

 

 それでは、氾濫流はどこから桜堤までやって来たのでしょうか?

 カスリーン台風襲来の一か月半後に、現在の埼玉県久喜市栗橋付近を撮影した空中写真をご覧ください。

利根川決壊口の航空写真(地図・空中写真閲覧サービス画像に加筆)

 この付近の利根川は、東遷事業の初期に直線的に開削された新川通と呼ばれる河道です。新川通の下流部では、渡良瀬川が合流し、流量が増えます。さらに利根川にかかる鉄橋の橋脚に引っかかった漂流物による堰上げにより水位が上昇し、9月15日20時ごろにはすでに堤防より溢水していました。

 そして翌16日0時過ぎには、写真の通り右岸堤防が約340mにわたって決壊しました。

 

 ここから流れ出した氾濫流は、下の図の通り、中川流域の低地を南へ下り、55時間後に桜堤にやってきました。

図4 中川低地に流入した利根川の洪水流の進行状況及び主な時間経過(国土地理院ホームページ「1947年カスリーン台風災害と治水地形」)

 実は、この図4の洪水走時線のアニメーションもあるので、ぜひ国土地理院のホームページに行って、ご確認ください。図4に赤字で記載の通り、約7時間も氾濫流を貯留した、桜堤の奮闘が視覚的にわかりますよ。

 

 桜堤が時間稼ぎしている間に、東京都は氾濫流への反撃作戦を立案しました。

 江戸川堤防を掘削し、氾濫流を江戸川に流してしまおうというのです。

 

 作戦の発想は良かったのですが…

 作戦の方法は、基底部の幅50m、高さ5mの堤防を人力で掘削するというもので、時間がかかりそうな…桜堤は持ちこたえられるのでしょうか? 

 

 作戦のタイムラインは以下の通りです。

   18日夕方 氾濫流、桜堤到達

     19時 東京都、内務省に堤防開削許可申請

     夜間 人力にて開削開始

     深夜 東京都、進駐軍に堤防爆破作業を依頼

   19日02時 桜堤決壊、氾濫流は都内へ侵入

     05時 進駐軍騎兵第一師団第八技術中隊到着、爆破作業開始

     15時 江戸川堤防開削に成功

   21日未明 氾濫流、江戸川区船堀の新川堤防にて停止

 

 というわけで、桜堤の奮闘むなしく、最終防衛ラインは突破され、氾濫流は都内へと侵入してしまったのです。

 

 最後に、桜堤決壊口の被災前後の航空写真を比較して見てみましょう。

被災前の桜堤(国土地理院提供航空写真に加筆)

被災後の桜堤(国土地理院提供航空写真に加筆)

 被災後は、決壊口に池ができています。これは、洗堀によって作られる「落堀」です。桜堤決壊時の激しい水流を物語っています。

 また、爆破した江戸川堤防は、何らかの形で仮復旧されていることも見て取れます。

 

(参考)

 ・内閣府  防災情報のページ   災害教訓の継承に関する専門調査会

 ・1947年カスリーン台風災害と治水地形 | 国土地理院 (gsi.go.jp)

 ・カスリーン台風 | 河川 | 国土交通省 関東地方整備局 (mlit.go.jp)

多摩地域は、どうして東京都?

たまたまじゃなく、意外な理由で東京都なんです

 令和5年は、多摩地域東京府に移管されて130年にあたる、節目の年でした。
 このことを踏まえて、東京都公文書館では、企画展示「東京府文書に見る多摩と東京―多摩地域東京府移管130年―」を、10月20日から12月19日まで開催していました。
 歴史的な公文書など、充実した展示内容により、多摩地域東京府に移管された経緯を分かりやすく伝えていました。

 来館者には立派な小冊子までいただけたうえで、しかも入場無料!さすがは東京都です。

 

立派な小冊子

 せっかくなので、なぜ多摩地域東京府に移管されたのか、地図を使って、簡潔に説明したいと思います。

 

多摩センターでこれか…

 

 明治4年の廃藩置県後、現在の多摩地域は大部分が東京府に、ごく一部が入間県(現在の埼玉県西部)に所属することとなります。

保谷市域と瑞穂町の一部区域は、入間県(地理院地図を加工)

 しかし、同年中に、東京府から神奈川県に所属替えとなりました。

 当時、神奈川県が管理する外国人遊歩区域が、横浜港を中心とした半径40㎞に設定されていました。この区域に多摩地域の一部が含まれているため、との理由でした。

外国人遊歩区域の北限は多摩川とされた(地理院地図を加工)

 その後、多摩地域は、東、西、南、北多摩郡の4つに分割のうえ、東多摩郡(現在の杉並区と中野区)は東京府に復帰したため、西、南、北多摩郡のいわゆる“三多摩“が成立します。

 

 さて、東京の飲料水は、江戸幕府による厳しい維持管理がなされてきた玉川上水に拠っていました。しかし維新以降、管理が行き届かず、明治19年コレラの大流行を招いてしまいました。

 また、東京府が要請し続けてきた多摩川上流部の水源涵養林の伐採禁止について、明治24年に神奈川県が解除してしまいます。

 これらを契機として明治25年9月、東京府と神奈川県は内務省に対し、三多摩東京府の管轄とするよう上申します。

 東京府は当初、水源管理上必要な西多摩郡北多摩郡だけの移管を求めました。

 しかし神奈川県は、三多摩から衆議院議員を2名選出していること、三多摩の歴史風俗の一体性を主張し、南多摩郡も移管するよう主張しました。

南多摩は、どちらにとってもいらない子地理院地図を加工)

 この背景には、自由党の地盤である南多摩郡を神奈川県から分離したいという、思惑もありました。

 自由民権運動を推進し、県政に影響力を持つ自由党は、当時の県知事と対立していたのです。いかに自由党が強かったかがわかるエピソードとして、帝国議会で移管法案審議中の明治26年2月25日前後に、西多摩郡南多摩郡の町村長や助役が一斉に辞任する事態も発生しています。

 東京府と神奈川県による上申を受け、同年12月に政府は境域変更法案を閣議決定しました。このなかで、移管の重要性として3点が挙げられています。

 

 ・玉川上水の一括管理
 ・多摩川の伝染病対策
 ・明治22年開業の甲武鉄道の利便性と経済的つながり

 

 なんと、甲武鉄道つまり現在のJR中央線が、最後のダメ押しになっています!

 確かに、三多摩と区部をつないでいますね。

横浜とつながる鉄道の開業は、明治41年地理院地図を加工)

 そして明治26年4月1日に、三多摩東京府に移管され、現在にいたります。

 

 ちなみに、のちに保谷市となる、保谷村の東京府編入は、明治40年です。

 

悪徳コンサルタントに翻弄された水戸藩!? 紅葉運河と大貫運河

この人を信用して、大丈夫かなぁ?

 水戸藩は立藩当初より財政は厳しく、コンサルタントに付け入られる隙がありました。

 

 まず、初代藩主頼房(家康の十一男)が江戸定府の前例を作ってしまいました。

 常に藩主が江戸で暮らす定府は、参勤交代をせずに済みますが、水戸と江戸の両方に家臣を召し抱える必要があり、同じ規模の他藩と比較して、人件費が掛かるのです。

 

 2代藩主光圀(水戸黄門)は、各地にはびこる悪代官やら悪徳商人やらを成敗しながらの「諸国漫遊」といった形では散財していません。なにせ、「漫遊」したのは江戸と水戸藩領内だけですから。

 しかし、他の御三家に張り合うため、内高(年貢の算定基準:28万石)より表高(幕府公認:36万石)を高くするよう、幕府に願い出たことで、表高に応じて決まる藩の経費も増加してしまいます。見栄を張るのは、よろしくないですね。

 加えて、後世に名を残すという目的で始めた「大日本史」編纂も費用が掛かりました。この編纂事業から生まれた水戸学は、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えたものの、「大日本史」そのものは、印税がドッカンドッカン入ってくるベストセラーではありません。

 しかも、幕末の水戸藩自身は、水戸学をめぐる内ゲバにより疲弊し、維新そのものには貢献していないのは内緒です。

格さん助さん、水戸黄門を懲らしめてやりなさい‼

 

 3代藩主綱條(光圀の兄である松平頼重の次男、つまり光圀の甥)のころには、財政再建待ったなしでした。

 そこで綱條が招いたのは、各地の藩で財政再建を成し遂げてきた、松波勘十郎です。松波は、藩の役人や経費の削減、専売制の強化、年貢の増加といった、領民の負担を増やす手法で、多くの藩を再建してきた実績がありました。

 しかしそれゆえに、領内からの反感を買うことが多く、幕府からは好ましからざる人物とみなされていました。

 

 松波は、藩の収入増加のため、水運に目を付けました。

 

 江戸時代初期に、東北諸藩から江戸へ、米を回漕する場合はどのようなルートを選んだでしょうか?

 当時の未熟な航海技術では、潮流が複雑な鹿島灘犬吠埼沖の通過は危険でした。

 したがって、太平洋や那珂川を南下した船は、陸送を経て、利根川水系を内航して江戸に輸送していました。具体的には、水戸藩領の海老沢、常陸宍戸藩領の網掛といった涸沼沿岸の河岸でいったん陸揚げのうえ、利根川水系の河岸まで陸送し、再度船に積み替えていました。

江戸時代初期の回漕ルート

 宍戸藩領網掛~鉾田のルートを抑えた仙台藩は、商売上かなり有利に立ったらしく、江戸での仙台米のシェアは大きかったらしいですよ。

 陸上輸送を挟むこれらの回漕ルートは、航海上の難所を回避できますが、積替の手間が掛かり、荷痛みや費用の問題が生じます。

 

 ちなみに、犬吠埼沖だけでも回避したいと、江戸初期の慶長年代に名洗運河が計画されましたが、岩盤が露出し挫折したという史実もあります。(銚子周辺は、千葉県最古の地層が見られます)

傾斜量図でわかる名洗運河の跡(地理院地図を加工)

 

 その後、航海技術の向上や輸送費用の問題などから、鹿島灘を航行する船が増えました。東廻り海運の確立です。それでもやはり、犬吠埼が危険なことは変わりません。そのため、銚子で内航船に積み替え、利根川水系で江戸入りする内川廻りも引き続き行われました。このことは、銚子が港町として発展する契機となりました。

 ですが、これでは、水戸藩にお金が落ちません。

松波は運河の通行料で財政再建を果たそうとした

 そこで松波は、陸上輸送を介さない、水運のみで安全なルートを建設し、通行料という現金収入を得ようと目論みました。具体的には、太平洋から涸沼に直接入ることができる「大貫運河」と、涸沼から巴川河畔の紅葉をつなぐ「紅葉運河」です。

 

 運河工事には、領民たちが動員され、過酷な労働を強いられましたが、約束の賃金は不払いでした。また、工事費用捻出のために村の木々を勝手に売り払うなど、多大な負担を押し付ける松波のやり方に不満を募らせた領民は、とうとう一揆を起こしました。

そりゃそうだろうよ…

 責任を問われ水戸藩から追放された松波ですが、翌年には江戸入府の際に捕らえられ獄死しました。

 

 さて、領民を酷使して建設された「大貫運河」と「紅葉運河」ですが、結局未完に終わりました。って、おい…

 

 大貫運河は、鹿島灘の荒波がもたらす砂によって埋まってしまいました。

完成はしたものの…自然には抗えない(地理院地図を加工)

 紅葉運河は、台地を約4kmも掘り込んで建設されましたが、掘削したそばから崩れてきます。このあたりの台地は、砂質土なのです。

 結局、紅葉運河の工事は一揆の勃発とともに中止され、未完に終わりました。

未完成に終わった紅葉運河(地理院地図を加工)

 

(参考資料)

土木学会関東支部茨城会 調査研究部会「郷土づくりの土木物語」第2話