すごいぞ 関東平野

関東平野の興味深い地形を、webGISを活用したOSINTの手法であぶり出します

戦国最大の山岳戦!? 「三増峠の戦い」を地形から読み解く

駿河侵攻を邪魔する後北条氏に、お灸をすえたのさ

 唐突ですが、三増峠の戦いはご存じですか?

 時は永禄12(1569)年10月、場所は現在の神奈川県愛甲郡愛川町三増周辺で、武田信玄後北条氏とが激突した戦いです。

 戦場となった愛川町周辺は、丹沢山地と相模平野の境にあたり、相模川支流の中津川が削り出した河岸段丘が発達しています。このように高低差のある地形を戦場とし、より有利となる高所への機動を伴うとともに、双方の損害が比較的大きくなったことから、「戦国最大の山岳戦」とも言われています。

 そもそも、信玄公と後北条氏はなぜ戦うことになったのでしょうか?

 これも詳しく書くと長くなりますが…。

 甲相駿三国同盟を天文23年(1554年)に締結した武田氏・後北条氏・今川氏でしたが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い以降、今川氏は弱体化してしまいます。

 これを機と見た信玄公は、今川領国を切り取ろうと同盟を破棄し、永禄11年から元亀2年(1568~1571年)にかけて駿河に侵攻します。しかし駿相同盟は維持されたため、甲相同盟は手切となりました。

今川領を、家康と分割することにしたのさ

 後北条氏牽制のため、信玄公は碓氷峠を超え、鉢形城(埼玉県寄居町)、滝山城(八王子市)と後北条氏の要害を攻撃しつつ南下し、本拠地である小田原城を4日間包囲したのち、甲斐へ帰ります。三増峠の戦いは、この帰路で生じました。

 「戦国最大の山岳戦」とも呼ばれてはいますが、この戦いの経過は、史料が少なく断片的に伝わるのみです。また、武田方も後北条方も、双方が勝利を主張しています。

 けれども、その断片的な情報と、戦場周辺の地形を読み解き、この戦いの詳細な経過を推察してみます。

 

戦い直前の状況(地理院地図を加工)

 小田原城包囲後、家路を急ぐ信玄公。厚木周辺から最短で甲斐を目指します。

 信玄公の今回の遠征によって痛い目にあった、滝山城主の北条氏照鉢形城主の北条氏邦兄弟は、武勇に秀でた玉縄城主(鎌倉市)の北条綱成とともに、三増峠付近の高所に陣取ります。

 信玄公が、峠を越えるとすぐの津久井城を攻撃すると踏んだからです。

  第四代当主北条氏政が直々に率いる、総勢2万とされる本隊は小田原城を出発しましたが、まだ戦場周辺には少し距離があります。

戦い序盤の布陣図(地理院地図を加工)

 平坦なところは白く、傾斜が急な所は黒く表現される傾斜量図に、布陣図を重ねてみました。

 迎え撃つ後北条軍は、三増峠へ続く街道を見下ろす高所に布陣します。

 対する武田軍は、部隊を3つに分けました。三増峠へ続く街道に布陣した本隊、戦場を迂回し志田峠に向かう山県昌景率いる別働隊、同じく迂回し津久井城を抑える部隊です。

 さて、戦場の地形についても少し解説します。ご覧の通り、志田峠、三増峠周辺は山がちな地形ですが、南側は比較的平坦な地形です。

 しかし、平坦地を流れる3つの沢や中津川の両岸は、急傾斜となっています。このような地形を、「田切地形」と言います。

田切地形はこうやってできた

 長野県南部の伊那谷が代表的(JR飯田線には「田切」と名の付く駅が2つもある)ですが、甲府盆地や諏訪盆地など、武田領には、田切地形がよく見られます。

 信玄公にとっては、戦い慣れた地形だということです。

 

 戦端を開いたのは、三増峠に向かうそぶりを見せた武田軍左翼の浅利隊と、これを阻止しようとする後北条軍右翼の綱成隊との交戦です。綱成隊の鉄砲によって、浅利信種は戦死し、現在その場所には浅利明神が祀られています。

 残りの武田軍は、志田峠に向かって西へ移動します。

 優勢に見える後北条軍ですが、綱成隊につられたのか、武田軍が退却していると判断したのか、高所から降りてしまいます。

後北条軍が直面する3つの田切地理院地図を加工)

 まるで堀のような田切を越えて追撃することは、後北条軍にとって少なくない犠牲が生じたと想像できます。追われる側の武田軍にとっては、越えた先に敵はおらず、多少の上下移動で済みます。しかし後北条軍にとっては、田切を越えるときこそ進軍速度が鈍り、武田軍の攻撃の格好の的となってしまうからです。

戦いの中盤の布陣図(地理院地図を加工)

 田切を越え、なおも追撃の手を緩めない後北条軍。武田軍本隊を、信玄公の座する本陣に向かって追い詰めているように見えます。

 しかし、志田峠に向かったはずの山県昌景率いる別動隊が峠で反転し、後北条軍左翼の側面を衝きます。

 形勢逆転、攻守が入れ替わります。

いつのまにか、武田軍が高所を占めている(地理院地図を加工)

 地形を敵に回した後北条軍は、田切に移動を妨げられ、山県隊に側面を襲われた左翼を救援できません。

 対する武田軍は、地形を味方にし、田切が寸断した後北条軍を各個撃破できます。

戦いの終盤の布陣図(地理院地図を加工)

 後北条軍左翼は、志田沢と深堀沢の田切によって退路を断たれた状況で、高所を占めた武田軍本隊右翼と山県別動隊による攻撃にさらされ、壊滅的な打撃を受けたのではないでしょうか。

 三増合戦碑の付近には、胴塚、首塚があり、後北条軍左翼にそれだけの戦死者が出たと推察できます。

三増合戦場碑から武田軍本陣を望む

戦いの終盤を描いたと思われる三増合戦場碑横の陣立図

 とはいえこの戦いは、地形を生かした機動戦の巧みさによって、武田軍が後北条軍に完全勝利した、というわけでもなさそうです。

 敵地から離脱できたとはいえ、浅利信種を筆頭に武田軍も少なからず損害を生じました。さらに、無傷の氏政本隊も近くにいます。

 戦いののち武田軍は、志田峠から10kmも離れた反畑(現在の相模原市緑区寸沢嵐)に集結しました。通例では戦場にて執り行われる首実検を含めた戦勝の儀を、この地で行いました。

 3200を超える首を洗ったと伝わる池の跡も、ここにはあります。

武田軍集結地の反畑は、田切で囲まれた天然の要害(地理院地図を加工)

 反畑は、相模川道志川によって形成された深い田切に囲まれており、仮に北条軍の追撃があっても安全な土地です。また、ここからは津久井城も見えます。

寸沢嵐から見た津久井城(写真中央のピラミッド型の山)

 武田四天王の一人、春日虎綱高坂弾正)の口述をまとめたとされる甲陽軍鑑では、この戦いの評価を、「御かちなされて御けがなり」(勝利したといえども、損害も受けた)としています。

 

 一方の後北条氏は、今回の武田軍の関東遠征によって、信玄恐るべし、と痛感したのでしょうか。

 2年後、武田氏と後北条氏は、甲相同盟を再締結することとなりました。