すごいぞ 関東平野

関東平野の興味深い地形を、webGISを活用したOSINTの手法であぶり出します

悪徳コンサルタントに翻弄された水戸藩!? 紅葉運河と大貫運河

この人を信用して、大丈夫かなぁ?

 水戸藩は立藩当初より財政は厳しく、コンサルタントに付け入られる隙がありました。

 

 まず、初代藩主頼房(家康の十一男)が江戸定府の前例を作ってしまいました。

 常に藩主が江戸で暮らす定府は、参勤交代をせずに済みますが、水戸と江戸の両方に家臣を召し抱える必要があり、同じ規模の他藩と比較して、人件費が掛かるのです。

 

 2代藩主光圀(水戸黄門)は、各地にはびこる悪代官やら悪徳商人やらを成敗しながらの「諸国漫遊」といった形では散財していません。なにせ、「漫遊」したのは江戸と水戸藩領内だけですから。

 しかし、他の御三家に張り合うため、内高(年貢の算定基準:28万石)より表高(幕府公認:36万石)を高くするよう、幕府に願い出たことで、表高に応じて決まる藩の経費も増加してしまいます。見栄を張るのは、よろしくないですね。

 加えて、後世に名を残すという目的で始めた「大日本史」編纂も費用が掛かりました。この編纂事業から生まれた水戸学は、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えたものの、「大日本史」そのものは、印税がドッカンドッカン入ってくるベストセラーではありません。

 しかも、幕末の水戸藩自身は、水戸学をめぐる内ゲバにより疲弊し、維新そのものには貢献していないのは内緒です。

格さん助さん、水戸黄門を懲らしめてやりなさい‼

 

 3代藩主綱條(光圀の兄である松平頼重の次男、つまり光圀の甥)のころには、財政再建待ったなしでした。

 そこで綱條が招いたのは、各地の藩で財政再建を成し遂げてきた、松波勘十郎です。松波は、藩の役人や経費の削減、専売制の強化、年貢の増加といった、領民の負担を増やす手法で、多くの藩を再建してきた実績がありました。

 しかしそれゆえに、領内からの反感を買うことが多く、幕府からは好ましからざる人物とみなされていました。

 

 松波は、藩の収入増加のため、水運に目を付けました。

 

 江戸時代初期に、東北諸藩から江戸へ、米を回漕する場合はどのようなルートを選んだでしょうか?

 当時の未熟な航海技術では、潮流が複雑な鹿島灘犬吠埼沖の通過は危険でした。

 したがって、太平洋や那珂川を南下した船は、陸送を経て、利根川水系を内航して江戸に輸送していました。具体的には、水戸藩領の海老沢、常陸宍戸藩領の網掛といった涸沼沿岸の河岸でいったん陸揚げのうえ、利根川水系の河岸まで陸送し、再度船に積み替えていました。

江戸時代初期の回漕ルート

 宍戸藩領網掛~鉾田のルートを抑えた仙台藩は、商売上かなり有利に立ったらしく、江戸での仙台米のシェアは大きかったらしいですよ。

 陸上輸送を挟むこれらの回漕ルートは、航海上の難所を回避できますが、積替の手間が掛かり、荷痛みや費用の問題が生じます。

 

 ちなみに、犬吠埼沖だけでも回避したいと、江戸初期の慶長年代に名洗運河が計画されましたが、岩盤が露出し挫折したという史実もあります。(銚子周辺は、千葉県最古の地層が見られます)

傾斜量図でわかる名洗運河の跡(地理院地図を加工)

 

 その後、航海技術の向上や輸送費用の問題などから、鹿島灘を航行する船が増えました。東廻り海運の確立です。それでもやはり、犬吠埼が危険なことは変わりません。そのため、銚子で内航船に積み替え、利根川水系で江戸入りする内川廻りも引き続き行われました。このことは、銚子が港町として発展する契機となりました。

 ですが、これでは、水戸藩にお金が落ちません。

松波は運河の通行料で財政再建を果たそうとした

 そこで松波は、陸上輸送を介さない、水運のみで安全なルートを建設し、通行料という現金収入を得ようと目論みました。具体的には、太平洋から涸沼に直接入ることができる「大貫運河」と、涸沼から巴川河畔の紅葉をつなぐ「紅葉運河」です。

 

 運河工事には、領民たちが動員され、過酷な労働を強いられましたが、約束の賃金は不払いでした。また、工事費用捻出のために村の木々を勝手に売り払うなど、多大な負担を押し付ける松波のやり方に不満を募らせた領民は、とうとう一揆を起こしました。

そりゃそうだろうよ…

 責任を問われ水戸藩から追放された松波ですが、翌年には江戸入府の際に捕らえられ獄死しました。

 

 さて、領民を酷使して建設された「大貫運河」と「紅葉運河」ですが、結局未完に終わりました。って、おい…

 

 大貫運河は、鹿島灘の荒波がもたらす砂によって埋まってしまいました。

完成はしたものの…自然には抗えない(地理院地図を加工)

 紅葉運河は、台地を約4kmも掘り込んで建設されましたが、掘削したそばから崩れてきます。このあたりの台地は、砂質土なのです。

 結局、紅葉運河の工事は一揆の勃発とともに中止され、未完に終わりました。

未完成に終わった紅葉運河(地理院地図を加工)

 

(参考資料)

土木学会関東支部茨城会 調査研究部会「郷土づくりの土木物語」第2話