すごいぞ 関東平野

関東平野の興味深い地形を、webGISを活用したOSINTの手法であぶり出します

「降伏します!」って全世界に発信した、多摩送信所とは? 

万策尽きた!

 日本がポツダム宣言を受け入れ、第二次世界大戦終結した、ということはご承知ですよね。この経緯をつらつらと書いていきますと、一冊の本になりそうですので、深入りは避けます。

 

 さて、「宣言を受諾しなさい」とか、「受諾します」といった意思表示を、外交関係のない国の、政府にも、国民にも周知したい場合に、どのように伝達すればよいのでしょうか?

 通常の外交交渉であれば、中立国で外交官がやり取りする方法もあります。

 しかし、ポツダム宣言の内容は、「早く無条件降伏しなさい」ですから、交渉の余地はありませんし、内容を国民にも周知したいわけですから、ちょっと違いますね。

 現在なら、X(旧ツイッター)、それともインスタですかね?

 けれども、仮にSNSが規制されている国なら、どうすればいいのでしょう?

 

 ベルリン近郊のポツダムで1945年7月26日、連合国により発表された宣言は、翌27日にアメリカ西海岸から短波放送で日本に向け発信されました。

 短波放送なら、ラジオ受信機さえ持っていれば、太平洋の向こう側の人も聞くことができます。もっとも、日本国内では短波放送の聴取は禁止されていましたし、28日には、日本国内の新聞各社が報道したのですが。

 というわけで、伝達方法には短波放送があります。

 

 前置きが長くなりましたが、外交ルートとは別に、短波放送で全世界に発信可能な場所は、東京近郊に3か所ありました。

終戦直前の短波放送送信所の位置(地理院地図のツールにて加筆)

 3か所とも、対外通信を事業とする国策会社の国際電気通信(現在のKDDI)によって開設されました。

 

 1940年開設の八俣送信所茨城県古河市)は、現在もNHKの海外向け短波放送と、しおかぜ(北朝鮮向け放送)を送信しています。

 常総台地上に広大な土地を確保でき、災害のリスクが低いことから場所が選定されましたが、45年4月には艦載機の機銃掃射を受けるなど、防空の観点からは脆弱でした。

 「本土空襲が本格化は必至」となった44年初めに、逓信省、軍部などから、防空送信所の建設と送信設備の確保を要請された国際電気通信は、耐弾式として44年6月に足柄送信所、隠蔽式として45年4月に多摩送信所を開設しました。これらの防空送信所の場所選定は国際電気通信ではなく、陸軍が行いました。

 

 ここから、今回の記事の本題になります。

 なぜ、この2か所が選定されたのでしょうか?

 耐弾式の足柄送信所は、御殿場線谷峨駅付近の廃トンネル内に設けられました。御殿場線は不要不急線に指定され単線となり、不要なトンネルが生まれたのです。現在でも坑口には、耐弾壁と真空管冷却用の水槽が現存してるようです(見学してみたいな…)。

 御殿場線に並走する酒匂川には水力発電所も複数立地し、送信に必要な電力も確保できます。東京との意思疎通は、鉄道電話でできますし。

 

 隠蔽式の多摩送信所は、現在の町田市相原に設けられました。ちょうど多摩丘陵西端部に当たります。

多摩送信所の位置(地理院地図にツールで加筆)

 場所は町田市西部の相原町字土ヶ谷戸JR横浜線相原駅から町田街道を4㎞ほど西に向かいます。

 送信所は字名の通り、多摩丘陵に食い込んだ谷戸の中にあり、アンテナは谷戸を囲む尾根上にありました。

 余談になるのか、この場所が選定されたカギなのかはわかりませんが、谷戸の奥には狼煙場があったとされる標高237mの無名峰があり、多摩丘陵の範囲の捉え方にもよりますが、最高峰となっています。

 ところで、上の地図には、「根岸バス停」と追記しました。このバス停、改名前は「相原中継所」でした。

 おそらく、多摩送信所の立地理由は、「送信所までの有線のケーブルが容易に確保でき」る相原中継所からほど近く、通信所のアンテナや建屋などの施設が隠蔽しやすい「尾根で三方を囲まれた」谷戸であったから、でしょう。

 国際電気通信の技術職員の回想録にも、その旨の記述があります。

 

 では、相原中継所とは、どのような施設なのでしょうか?

 調べてみると、なかなか興味深いエピソードが浮かび上がってきました。

 次の図をご覧ください。

日満無装荷ケーブルと相原中継所(地理院地図にツールで加筆)

 すでに国内の電話網が装荷ケーブル方式で整備されていた昭和15年、無装荷ケーブル方式という、まったく新しい方式による、新京~東京間の国際通信ケーブルが開通したのです。

 無装荷ケーブルの実用化により、特許料の支払削減、施設の簡素化、通話品質の向上、複数回線の確保が実現でき、従来の装荷ケーブルの課題を一挙に解決できました。

 ただ、約50㎞間隔で信号を増幅するための中継所が必要となります。東京側からみて、最初の中継所が相原だったのです。

 まったくの余談ですが、旧来の装荷ケーブルのルートは東海道、無装荷ケーブルのルートは中山道となっています。なんだか、鉄輪式の東海道新幹線と、超電導リニア方式の中央新幹線のようですね。

 

〈資料〉

 相原電話中継所 | 相原 (machida-aihara.info)

 相原中継所の歴史  世界初三千キロの無装荷ケーブル www.yanenonaihakubutukan.net/2/aiharatyuukeijo.html

 防空送信所回想録 yanenonaihakubutukan.net/2/tamasousinnjo.html