すごいぞ 関東平野

関東平野の興味深い地形を、webGISを活用したOSINTの手法であぶり出します

青梅市の新町御嶽神社にある、珍しい「自然災害伝承碑」とは?

記念碑記号を約1.5倍に拡大し、縦線を追加(国土地理院HP地図記号一覧より)

 「自然災害伝承碑」の地図記号をご存じでしょうか。2023年時点では、最も新しく制定された地図記号です。

 平成30年7月豪雨、いわゆる西日本豪雨では、過去の水害を伝える石碑という先人からの貴重なメッセージを十分に活かせなかった事例がありました。

 これを踏まえ、住民の防災意識向上と災害伝承に関する地図分野での貢献を目的とし、2019年3月、国土地理院は「自然災害伝承碑」の地図記号を制定しました。

 「(津波が来るから)ここより下に家を建てるな」と言う先人のメッセージは、とても重い意味がありますからね。

 

 先日記事にした、「武蔵野台地西端の碑」は、当然ですが該当しません。

 ※その記事https://amazingkantoplain.hatenablog.com/entry/2023/02/14/022232

 

 そこから東に150m、新町御嶽神社の境内に「自然災害伝承碑」の記号があります。

 この場所は、河川、海岸あるいは火山から遠く、平坦高燥な武蔵野台地の(青梅市認定の)西端です。したがって、洪水、地すべりなどの土砂災害、高潮、地震による津波火砕流といった火山災害は、想定しにくいですね。

 では、どのような災害に見舞われたのでしょうか?

 

 

新町御嶽神社青梅市新町2-28)の降雹記念塔(地理院地図にツールで加筆)

 なんと「降雹」でした。

 昭和2年5月15日、直径1.5~2cmの雹が降り、周辺一帯の桑や茶といった農作物がほぼ全滅したのです。

 雹は気象条件さえ整えば、地形とはほぼ無関係に襲来すると思われます。先人のメッセージをしかと受け止め、降ってきたら安全な建物内に逃げましょう!

 

広島のスカイレールは廃止、コリナス長池では運行中の「短距離交通」とは?

こんな路線、あったっけ?

 広島県広島市安芸区のニュータウンとその最寄りのJR瀬野駅を結ぶ、広島短距離交通瀬野線はご存じですか?

 この瀬野線は、三菱重工業神戸製鋼所が共同開発したスカイレールが、世界で初めて採用され、かつ未だに世界で唯一の路線です。

懸垂式モノレールの一種です(三菱重工技報 Vol.32 No.4(1995-7)より)

 しかし報道によれば、2023年末をもって廃止され、代替交通機関としてEVによる路線バスが走る、とのことです。

 この広島短距離交通瀬野線ですが、おそらく路線名に「短距離交通」が含まれる唯一の公共交通機関です。さて「短距離交通」とは、いったい何でしょう?

 

 交通計画に関する調査研究を行う公益社団法人「日本交通計画協会」では、無償で年4回、広報誌「都市と交通」を発刊しています。この「都市と交通」通巻25号の特集が、まさに「短距離交通システム」となっており、短距離交通に関するまとまった記述を有する、唯一の文献と言っても過言はないと思います。早速見てみましょう。

都市と交通 通巻第25号(1992年11月発刊)

 野中ともよ氏の随想に書かれた、「失踪と同じようなかたちで、インドから帰らない」3人の友人のその後がすごく気になりますが…それはさておき。

 明確な定義については書かれていませんでしたが、短距離交通システムとは、通常の歩行移動を支援し、垂直方向を含め数メートル~2kmまでの交通手段のことのようです。そして、旧建設省の課長補佐が執筆した「短距離交通システムの現状と課題」という記事に、短距離交通システムの導入事例の一覧表がありました。

「短距離交通システムの現状と課題」の抜粋

 なんと、京王堀之内駅前の旧住宅・都市整備公団の住宅地内に、短距離交通システムが存在する!

 

 前置きが長くなりましたが、ここからは短距離交通システムの乗車体験レポートです。

まずは、京王堀之内駅から南へ向かい、屋根付きのエスカレーターを2本乗ります

歩道橋に上がるため、さらにエスカレーターに乗ります

歩道橋の先に、短距離交通システムの「2階」駅が見えています

「2階」駅。堀之内駅から雨に濡れず、短距離交通システムに乗り換えられます

展望車両となっています。「2階」駅のホームがよく見えます

「3階」駅から「2階」駅と京王堀之内駅方向を望む

 堀之内の短距離交通システムの正体は、旧住宅・都市整備公団の住宅地「コリナス長池」の斜行エレベーターです。乗車時間は短く、3本あったエスカレーター乗車時間のほうが長いような気がします…

 

 さて、斜行エレベーターやスカイレールの導入により効果が期待できるのは、どのような場所でしょうか。

 「ニュータウン等の大規模住宅開発地区内と鉄道駅との結節や、特に両者の間に高低差の激しい箇所において、歩行抵抗の大きい上下移動を補助する必要のある地区」(「短距離交通システムの現状と課題」より引用)への導入効果は高そうです。

 というわけで、斜行エレベーターやスカイレールがどの程度の上下移動を補助しているかを下の図にまとめました。

「歩行抵抗の大きい上下移動を補助する」短距離交通システムの比較図

 スカイレールである瀬野線は、上下移動もさることながら、水平移動も大きな役割を担っています。

 斜行エレベーターは、上下移動が主たる役割ですね。ですので最近では「ニュータウン等の大規模住宅開発地区内と鉄道駅との結節」が目的であっても、「ブリリアシティ横浜磯子」や「パストラルびゅう桂台」などのように、地下通路による歩行移動とエレベーターによる上下移動の組み合わせとなっています。

最近の事例の模式図


 では、斜行エレベーターの効果が期待された、旧住宅・都市整備公団の住宅地「コリナス長池」周辺の地形を見てみましょう。

コリナス長池周辺の概要(地理院地図、URコリナス長池の住棟配置図を加工)

 京王堀之内駅の南側は、全面買収方式によりひな壇状に高低差を処理された新住宅市街地開発事業地区です。まさに「ニュータウン等の大規模住宅開発地区内と鉄道駅との結節や、特に両者の間に高低差の激しい箇所において、歩行抵抗の大きい上下移動を補助する必要のある地区」となっています。

 京王堀之内駅からコリナス長池へは約25メートルの高低差を伴うものの、3本のエスカレーターと斜行エレベーターの組み合わせにより、上方への移動が補助されています。なお、エスカレーターは上りしかありませんので、駅へ向かう下降は斜行エレベーターと階段です。また、コリナス長池とエミネンス長池との間には、凹部の区画道路をまたぐように歩道橋が設けられているので、その補助効果はエミネンス長池方面にも及びます。

 しかしながらベビーカーや車いすなどの移動は、上方へはエスカレーターが、下方へは階段が支障となるため、バリアフリーの別ルートを通行する必要があります。

 

 ところで、「3階」駅の意匠はとても良い感じなのです。

3階駅の駅舎(?)は切妻屋根

3階駅の内部 券売機とか改札口とか置きたくなりませんか?

 切妻屋根は、無くても成立するのに、わざわざ設置したように見えます。

 設計者のこだわりが感じられて、私は好きです。

ケーブルカー高尾山駅舎も切妻屋根



「武蔵野台地の西端」って、どこだか知ってた? 青梅市大山公園

武蔵野台地の範囲(地域地質研究報告「青梅地域の地質」より)

 武蔵野台地は、多摩川隅田川新河岸川入間川および同水系の霞川で区切られた、面積約700㎢の台地です。秩父山地を抜け出した多摩川が作った広大な扇状地を基盤とし、その上に関東ロームが堆積してできた、広大で平坦な台地です。

 関東平野そのものや大阪平野といった沖積平野を除けば、おそらく日本最大の居住人口を誇る大地形(複数の都道府県にまたがるような広域の地形)でもあります。(区部西部+多摩北部+埼玉県南西部=1000万人弱⁉)

 

 さてその広がりですが、北端は川越城周辺、東端は上野寛永寺、南端は池上本門寺周辺となっています。いずれの名所旧跡も武蔵野台地の端部という立地条件から、標高は周辺より高く、防御機能の強化や荘厳さの演出に地形を上手に活用しています。

 ところで、西端は?

武蔵野台地西端」はどこ?(地理院地図にツールで加筆)

 左は傾斜量図ですので、傾斜が緩いと白く、急だと黒色が濃くなります。したがって、青梅駅近くの住吉神社の丘が、地形からみれば台地西端のようです。

 右は地質図を重ねています。黄緑色が武蔵野台地を構成する第四紀の段丘堆積物ですので、地質学の観点からは、台地は青梅駅よりまだ西に伸びているように見えます。

 

 ですが、武蔵野台地の西端はどちらでもありません。

 左右の地図それぞれの中心である十字の地点、具体的には青梅市新町1-39に所在する、大山公園内の小さな丘の頂上こそ、西端の地です。

 なぜ、そう言い切れるのかって?こちらの写真をご覧ください。

武蔵野台地西端の地」石碑(青梅市新町1-39)

 新田開発者により稲荷社を祀った塚が、のちに地元の住民に大山と呼ばれ、土地区画整理事業で公園内に取り込まれるとともに、その公園名の由来にもなりました。

 そして、江戸初期の新田開発による新町開村380周年を記念し、平成8年3月に青梅市は、稲荷塚の頂上に石碑を建てました。

 したがって、この稲荷塚こそ、「青梅市認定の」武蔵野台地の西端となります。

現在も活動を続けている地形を行政境に! 櫛引断層

埼玉県深谷市大里郡寄居町の境です(地理院地図にツールで加筆)

 今回は、現在も活動を続ける地形に由来する行政境を取り上げます。

 河川や尾根など、わかりやすい自然地形を行政境とすることはよく見られますが、こういったケースは、珍しいのではないでしょうか。

 場所は、埼玉県大里郡寄居町深谷市との行政境です。最寄り駅は、寄居駅からJR八高線で1駅北上した用土駅です。この付近は1955年に寄居町と合併するまで旧用土村でした。まるで寄居町の飛び地のようですが、鐘撞堂山付近でつながっています。

 早速、地理院地図で見てみましょう。

地形図と陰影起伏図を比較(黒点線:行政境、地理院地図にツールで加筆)

 右の陰影起伏図では、北西から南東に走る比高数メートルの直線状の崖線が見て取れます。この崖線を挟んで、北東側が南西側に対して相対的に高くなっており、土地利用も南西側では水田、北東側では畑が分布しています。

 そして寄居町深谷市の行政境ですが、よく見ると崖線とは一致せず、数十メートルほど北東にズレています。

 この崖線の正体は、いったい何でしょうか?こちらの図をご覧ください。

深谷断層帯綾瀬川断層と櫛挽断層の位置(政府地震調査研究推進本部HPより加筆)

 群馬県高崎市付近から埼玉県川口市付近にわたって、深谷断層帯綾瀬川断層(関東平野北西縁断層帯・元荒川断層帯)と呼ばれる断層帯が存在します。

 北半分にあたる深谷断層帯の副次的な断層である、櫛挽断層が崖線を作ったのです。ということで、活断層図を見てみます。

崖線ではなく、活褶曲のピークに行政境(地理院地図の活断層図にツールで加筆)

 櫛挽断層の活動によって縦ずれ(崖線)が生じたため、南西側の沖積低地と北東側の段丘面に分かれました。

 また段丘面には、活褶曲による微高地が崖線に並行して生じました。微高地は道路にすると、周辺より水はけが良いため、通行や維持管理が容易になります。

 この道路を行政境として設定したと考えることができます。

 結果論ですが、寄居町深谷市の行政境は、現在も続いている変動によって生じた地形に由来するとも言えるのです。

栃木と茨城の境界線 直線県境の謎を解く!

うーん、それって妄想じゃない?

 都道府県の境って、どんな線を思い浮かべますか?

 尾根や河川などの自然の地形を境界としていることが多いので、どうしてもギザギザになりますね。

これは…(地理院地図にツールで加筆)

 実は日本国内にも、アメリカの州境やアフリカ諸国の国境のように、県境が直線状になっているところがあります。

 富士山麓静岡県山梨県)や鳥海山麓(山形県秋田県)にもありますが、これらは、樹林や荒れ地など住民のいない低利用地を直線状の県境が分割しています。

 

 今回ご紹介したいのは、冒頭で示しました、栃木県(旧下野国)と茨城県(旧下総国)との境界になります。なぜここだけ、6km以上にわたって県境が直線状なのでしょうか?

 このあたりは現在でこそ近郊農業が盛んですが、当時はやはり鬱蒼とした樹林だったと思われます。簡易な分割方法として、直線で境界を設定したのでしょうか?

古代の官道を彷彿とさせるあやしい掘割状地形(地理院地図に加筆)

 断面図を示した場所に道路は存在していませんが、掘割状の地形がありますね。さらに、この周辺では県境に沿って細長い帯状の地割も見られます。

 また、幹線道路のような直線的かつ大規模な土木構造物は、土地を分割する目標として、都合がよいですね。前回取り上げた狭山市所沢市の市境がその例です。

 ※前回記事https://amazingkantoplain.hatenablog.com/entry/2023/01/07/235520

 この考え方によれば、直線県境は古代の幹線道路の遺構、ということになります。

 

 さて、古代の道路が存在したとして、6km以上にわたる直線状の線形から、人々の往来によって生じた自然発生的なものではなく、高い計画性が感じられます。したがって、建設したのは誰か、その目的は何か、という疑問が生じます。

 建設したのは、計画を実現する技術力や経済力を有する、律令政府か在地有力豪族と思われます。

 では目的ですが、まずはこちらの資料をご覧ください。

鬼怒川緊急対策プロジェクト資料(関東地方整備局下館河川事務所HPより)

 鉄道開業以前において、大量輸送が可能な交通機関は舟運です。

 資料にありますが、江戸幕府による利根川東遷事業により、利根川と鬼怒川が結ばれ、東北地方と江戸を結ぶ舟運ルートが成立しました。

 いずれも、東北からの諸街道が集まる阿久津河岸(栃木県さくら市)から久保田河岸(茨城県結城市)までは、鬼怒川での小鵜飼船(25俵程度の積載能力)による輸送です。

 久保田河岸は、比較的大きな支川である田川と鬼怒川本川との合流地点であり、下流は流量が増加します。そのため、高瀬舟(200-1000俵程度)が航行可能なのは久保田河岸まで、上流へは小鵜飼船への積み替えが発生します。

 「大廻しルート」は、鬼怒川~利根川~江戸川と高瀬舟によって江戸まで向かうルートです。陸揚げの手間もなく、舟運のみで江戸まで行けますが、遠回りなうえ、このルート上の利根川は東遷事業による人工河川で勾配が緩く、航行は大変だったようです。

 「境廻りルート」は、久保田河岸にて陸揚げし、境河岸から江戸川を下るルートです。境河岸での船積みが発生しますが、久保田河岸での積み替えは不要となるとともに、舟運陸路合計の輸送距離は短絡されます。

 資料にはありませんが、下館河川事務所HP「鬼怒川・小貝川の歴史(舟運)」によれば、大廻しルートのショートカットルート(利根川鬼怒川合流点の木野崎河岸~江戸川の今上新田河岸を陸路で短絡:明治になり利根運河が建設される)もありました。

 

 ここまでで、この古代道路の目的について、ご推察いただけましたか?

 説明いたしますので、下の図をご覧ください。

古代道路?と主な河川の当時の流路(地理院地図を加工)

 ご覧の通り、直線道路を建設すれば、東西にも南北にも往来が容易になることがお分かり頂けると思います。(東国三社とは、鹿島神宮香取神宮、息栖神社の総称。大和政権の関東開拓の拠点でした)

 もちろん、道路ではなく水路であればより効率的ですが、技術力の面でも経済力の面でも、当時はハードルが高いと推察できます。

 したがって、古代の直線道路の建設目的は、江戸時代の境廻りルートと同じく、「効率的な舟運ルートの確立」であると思われます。

 当時は利根川流域と鬼怒川流域が水路で連絡されていないため、関東平野を東西または南北に輸送する場合、必ず一旦は陸揚げが必要となります。その陸路の輸送を最短にするとともに、東側の入口を久保田河岸とすることでサイズの異なる船への積み替えも減らすことが可能です。

 

 以上をまとめます。

 1 律令国家の成立による舟運の増大

   (租庸調や対蝦夷のための軍事輸送)

 2 関東一円での効率的な舟運には、陸路が生じる

   (当時、利根川流域と鬼怒川流域は、連結していない)

 3 陸路は可能な限り短くしたいので一直線に

   (船舶間の積み替えの手間も省きたい)

 4 ところで、下野/下総国境は明白にしたい

   (一直線の道路は、境界標にふさわしい)

 5 律令制崩壊による舟運の減退と維持管理の放棄

   (そして廃道へ)

 6 土地の境界線としての国境は残り、現在の県境へ 

 

 ただ、ここに道路があったする根拠も、目的に関する記録もありません。ですが、これ以外に説明がつかないと思いますので、現時点での正解と考えています。

 他の古代道路、例えば東山道武蔵路であれば、「続日本紀」のような記録や発掘調査などの根拠がありますので、ちょっとこのあたりも、どなたか調査していただけないでしょうか…なんてね。

古代の高規格道路? 官道 東山道武蔵路の遺構を探す

ここまで高規格ではないけれど…あはは

 このブログ、サブタイトルに「関東平野の興味深い地形を、webGISを活用したOSINTの手法であぶり出します」と、ちょっと大げさな表現が見られます。

・OSINTの手法

 →公的機関の公開情報を収集、分析

 →うん、ちゃんとやってるよ

・WebGISを活用

 →地理院地図やグーグルマップの有する機能を活用

 →うん、ちゃんとやってるよ

・あぶり出します

 →あぶり出してる…?

 

 前回の上円下方墳の記事で東山道武蔵路を少し話題にしましたので、この古代道路の遺構をちゃんとあぶり出し、御覧に入れたいと思います。

 

 さて、日本の古代道路といえば、どんな道路をイメージしますか?

 山の中は登山道のような細く険しい、ケモノ道…

 平野では不定形の田畑の間を縫うような、あぜ道…

 けれどもそんな低規格な道路では、せっかく律令制によって中央集権国家となっても、都まで税金(租庸調…)を納めに行くことは困難ですね。

 また、白村江の戦、壬申の乱蝦夷との戦いと、国の内外で軍隊の移動が必要な時代でもありました。

 このような背景から、7世後半に律令政府による七道駅路の整備が進みました。

七道駅路概要図(国土交通省HP「道の歴史」より)

 七道駅路の特徴としては、初期は12mと幅員が広く、見通しの良い2点を結ぶように敷設され直線的であることです。1000年くらい遅れはしましたが、まるでローマ街道のようです。

 考えてみれば、直線道路の設計は、クロソイド曲線で設計するよりは簡単そうです。

(クロソイド曲線:ハンドルを一定の角速度で回した時の自動車の軌跡と同じ曲線。アウトバーン以降の道路設計で採用)

 

 さて東山道武蔵路とは、武蔵国東山道に属していた7世紀から8世紀までの短期間、東山道の本道と武蔵国府を連絡していた枝道になります。枝道とはいえ、幅員12mを有し、朝廷の使節も通る、律令政府が維持管理する官道でした。

 武蔵国東海道に所属替えとなった8世紀以降、官道からは降格されますが引き続き武蔵国上野国を結ぶ幹線道路として利用されました。

 そして11世紀以降は道路としての機能を失い、鎌倉街道に代替されました。

東山道武蔵路跡野外展示施設の説明板(国分寺市教育委員会

 東京都国分寺市、JR西国分寺駅から徒歩5分の場所で、東山道武蔵路の遺構が発掘されました。現地にはそのレプリカが展示されていたり、カラー舗装で側溝の位置が表示されています。

 説明板には、武蔵路のみならず、この道の後裔ともいえる鎌倉街道についても、しっかりと解説があります。

 当時はこの道を北上し、多くの人が都に上ったのです。

東山道武蔵路跡 遺構平面のレプリカ

 北側(写真左方)に向かって、坂を下っているのがお判りでしょうか。

 すぐ北側には、恋ヶ窪谷という谷戸があります。

国分寺付近の東山道武蔵路地理院地図の傾斜量図にツールで加筆)

 直線にこだわる東山道武蔵路は、恋ヶ窪谷へ降ってすぐ登るかたちとなっています。

 時代が下って鎌倉街道は、直線性も失われ、幅員も狭くなりますが、勾配は緩和されていることが読み取れるかと思います。

 

 さて、今回の記事のタイトルは「遺構を探す」となっています。国分寺の現場は、発掘して初めて判明したのであり、傾斜量図のようなWebGISを活用しても、よくわかりませんね。別の場所をあたります。

 

 ということで、西国分寺駅から北へ15㎞の埼玉県内、狭山市所沢市の境にやってきました。

 狭山市の都市計画図をご覧ください。

狭山都市計画図 都市計画分割図16(狭山市役所HPより)

 狭山市所沢市が細長く食い込んでいます。幅15m、延長700mくらいでしょうか。所沢市側で道路遺構が見つかったことから、ここも武蔵路であったと考えられています。

狭山市所沢市の市境の武蔵路推定箇所(2019年6月撮影)

 もともと武蔵野は、水の便が悪い広大な台地であるため、新田開発が進んだ江戸時代以前はうっそうとした樹林におおわれたと考えられています。この写真は、アスファルトさえなければ、当時の武蔵路、あるいは鎌倉街道を彷彿とさせる景色となっています。

 残念ながら、執筆時点では両側とも伐採され、万能鋼板で囲われた、殺風景な景色となっています。それはさておき、ネットで公開している都市計画図も立派なWebGIS、あぶりだせたかな?

 

 ここからさらに北へ2km、埼玉県道8号線(茶つみ通り)との交差点付近まで来ました。

不老川の崖線にある、あやしい掘割状地形(地理院地図に加筆)

 陰影起伏図や傾斜量図ではちょっとわかりにくいのですが、断面図で見るとわかりますね。

 茶つみ通り沿いの集落の背後には、不老川によって形成された比高5m程度の崖線があります。勾配緩和のための掘割があれば、歩きやすいですよね。

あやしい掘割状のくぼ地

 発掘調査が行われていませんので推定ですが、これも武蔵路か鎌倉街道の遺構であろうと考えられています。

 

 ここからさらに北へ進むと、前回ご紹介した川越市の山王塚古墳の西方を通り、河川敷にスターバックスが出店した入間川を渡ります。

 そして入間川を渡った先、川越市的場の女堀遺跡より北では、東山道武蔵路の確実な遺構は見つかっていません。

鎌倉街道沿いの珍しい古墳 上円下方墳とは?

ありふれた形のようで、全国6か所しかないそうですよ

 川越市大塚、ちょうど関越自動車道川越インターの北側に、山王塚古墳はあります。

川越インター付近のグーグルマップ

 令和4年12月16日、文化庁文化審議会は、この山王塚古墳を史跡として指定するよう、文部科学大臣に答申しました。

文化審議会答申(別紙)の抜粋(文化庁HPより)

 記載の通り山王塚古墳は、国内最大規模の上円下方墳です。文字通り四角形の下段の上に、円形の上段が乗る形状の古墳となっています。

 この上円下方墳は確認順に、石のカラト古墳(京都府相楽郡奈良市)、清水柳北1号墳(静岡県沼津市)、武蔵府中熊野神社古墳東京都府中市)、天文台構内古墳(東京都三鷹市)、野地久保古墳(福島県白河市)、そしてこの山王塚古墳と、現時点では全国6か所しかありません。いずれも7世紀半ば~8世紀初頭の、100年弱の間に造られたと考えられています。

 また、明治天皇大正天皇昭和天皇天皇陵も、この形となっています。

 これは、大化の改新でおなじみの天智天皇陵(近年の調査では、八角墳と判明)を上円下方墳とみて、それに習ったためです。

上円下方墳たちのサイズ

 さすが日本最大の大仙陵…はさておき、山王塚古墳は大きいですね。それでも、地理院地図の標準図では、広葉樹の記号が記された、建物のない土地としか表現されません。

 では、高低差がはっきりわかる、陰影起伏図ならどうでしょう?

地理院地図の陰影起伏図にツールで加筆

 おお、陰影起伏図でみれば、上段の円形はくっきりしていますし、少し崩れながらも下段の方形もよく確認できますね。

 ところで先ほど述べた通り、関東平野にはあと2つ、上円下方墳があります。府中市武蔵府中熊野神社古墳と、三鷹市天文台構内古墳です。

関東の3つの上円下方墳と東山道武蔵路地理院地図にツールで加筆)

 山王塚古墳の西方には、古墳築造に前後して整備された官道、東山道武蔵路がありました。

 律令制が確立する7世紀に成立し、8世紀には降格されたと考えられている、約12mの幅を持つ古代の幹線道路です。のちの鎌倉街道上道(鎌倉~両毛地区を結んだと考えられる)のルーツとなっています。

 この古代の道を南に向かうと、武蔵府中熊野神社古墳があります。

 これら2つの古墳には、何らかの関係性があったのかもしれませんね。

武蔵府中熊野神社古墳(グーグルマップより)