このブログ、サブタイトルに「関東平野の興味深い地形を、webGISを活用したOSINTの手法であぶり出します」と、ちょっと大げさな表現が見られます。
・OSINTの手法
→公的機関の公開情報を収集、分析
→うん、ちゃんとやってるよ
・WebGISを活用
→地理院地図やグーグルマップの有する機能を活用
→うん、ちゃんとやってるよ
・あぶり出します
→あぶり出してる…?
前回の上円下方墳の記事で東山道武蔵路を少し話題にしましたので、この古代道路の遺構をちゃんとあぶり出し、御覧に入れたいと思います。
さて、日本の古代道路といえば、どんな道路をイメージしますか?
山の中は登山道のような細く険しい、ケモノ道…
平野では不定形の田畑の間を縫うような、あぜ道…
けれどもそんな低規格な道路では、せっかく律令制によって中央集権国家となっても、都まで税金(租庸調…)を納めに行くことは困難ですね。
また、白村江の戦、壬申の乱、蝦夷との戦いと、国の内外で軍隊の移動が必要な時代でもありました。
このような背景から、7世後半に律令政府による七道駅路の整備が進みました。
七道駅路の特徴としては、初期は12mと幅員が広く、見通しの良い2点を結ぶように敷設され直線的であることです。1000年くらい遅れはしましたが、まるでローマ街道のようです。
考えてみれば、直線道路の設計は、クロソイド曲線で設計するよりは簡単そうです。
(クロソイド曲線:ハンドルを一定の角速度で回した時の自動車の軌跡と同じ曲線。アウトバーン以降の道路設計で採用)
さて東山道武蔵路とは、武蔵国が東山道に属していた7世紀から8世紀までの短期間、東山道の本道と武蔵国府を連絡していた枝道になります。枝道とはいえ、幅員12mを有し、朝廷の使節も通る、律令政府が維持管理する官道でした。
武蔵国が東海道に所属替えとなった8世紀以降、官道からは降格されますが引き続き武蔵国と上野国を結ぶ幹線道路として利用されました。
そして11世紀以降は道路としての機能を失い、鎌倉街道に代替されました。
東京都国分寺市、JR西国分寺駅から徒歩5分の場所で、東山道武蔵路の遺構が発掘されました。現地にはそのレプリカが展示されていたり、カラー舗装で側溝の位置が表示されています。
説明板には、武蔵路のみならず、この道の後裔ともいえる鎌倉街道についても、しっかりと解説があります。
当時はこの道を北上し、多くの人が都に上ったのです。
北側(写真左方)に向かって、坂を下っているのがお判りでしょうか。
すぐ北側には、恋ヶ窪谷という谷戸があります。
直線にこだわる東山道武蔵路は、恋ヶ窪谷へ降ってすぐ登るかたちとなっています。
時代が下って鎌倉街道は、直線性も失われ、幅員も狭くなりますが、勾配は緩和されていることが読み取れるかと思います。
さて、今回の記事のタイトルは「遺構を探す」となっています。国分寺の現場は、発掘して初めて判明したのであり、傾斜量図のようなWebGISを活用しても、よくわかりませんね。別の場所をあたります。
ということで、西国分寺駅から北へ15㎞の埼玉県内、狭山市と所沢市の境にやってきました。
狭山市の都市計画図をご覧ください。
狭山市に所沢市が細長く食い込んでいます。幅15m、延長700mくらいでしょうか。所沢市側で道路遺構が見つかったことから、ここも武蔵路であったと考えられています。
もともと武蔵野は、水の便が悪い広大な台地であるため、新田開発が進んだ江戸時代以前はうっそうとした樹林におおわれたと考えられています。この写真は、アスファルトさえなければ、当時の武蔵路、あるいは鎌倉街道を彷彿とさせる景色となっています。
残念ながら、執筆時点では両側とも伐採され、万能鋼板で囲われた、殺風景な景色となっています。それはさておき、ネットで公開している都市計画図も立派なWebGIS、あぶりだせたかな?
ここからさらに北へ2km、埼玉県道8号線(茶つみ通り)との交差点付近まで来ました。
陰影起伏図や傾斜量図ではちょっとわかりにくいのですが、断面図で見るとわかりますね。
茶つみ通り沿いの集落の背後には、不老川によって形成された比高5m程度の崖線があります。勾配緩和のための掘割があれば、歩きやすいですよね。
発掘調査が行われていませんので推定ですが、これも武蔵路か鎌倉街道の遺構であろうと考えられています。
ここからさらに北へ進むと、前回ご紹介した川越市の山王塚古墳の西方を通り、河川敷にスターバックスが出店した入間川を渡ります。