すごいぞ 関東平野

関東平野の興味深い地形を、webGISを活用したOSINTの手法であぶり出します

オーストラリアと同じ地質構造が千葉市内に! 自噴井「太郎」とは?

規模は豪州の方が圧倒的ですけれども…(地理院地図を加工)

 千葉駅から東へ約4km、京葉道路千葉東金道路が分岐する千葉東JCTのそばに、大規模な親水公園、都川水の里公園が整備中です。

都川水の里公園はココだ(地理院地図を加工)

 この公園の供用済みエリアは、千葉市中央区若葉区にまたがっています。そして、このエリア内には「太郎」と名付けられた自噴井があります。

https://www.city.chiba.jp/toshi/koenryokuchi/kanri/wakaba/ogawa-tannbo.htmlより

 写真の「太郎」のように、圧力水頭が湧出する地表面よりも高い地下水(被圧地下水)が地表に噴出する現象を、自噴と言います。

 そして被圧地下水の分布により自噴する井戸の多い盆地を、「鑚井盆地」と呼びます。社会科の授業で習いませんでしたか?

 そう、オーストラリアの内陸東部に広がる「大鑚井盆地」。これは、世界最大の鑚井盆地です。

叫ぶほどでもない、自噴のイメージ

 ご覧の通り、帯水層の上に難透水層が重なり、地表面よりも帯水層の地下水位が高いと自噴します。

 園内にも、同様の説明板があります。

 けれども、「太郎」がこの仕組みの通りなのか、やっぱり自分の手で確かめたいと思いませんか?(思わないよ?別に…)

 「自分の手で」とは言いましたが、付近一帯を難透水層まで掘るわけにもいきません。

 さて、どうしましょうか?

 

 

 千葉市役所のサイトには、「市有建築物におけるボーリングデータの情報提供」という素敵なページがあります。

https://www.city.chiba.jp/toshi/kenchiku/kanri/bolingdata.htmlより

 ここでは、ボーリングデータ(柱状図)をPDF形式で無償公開しています。これらを比較して、地質構造を探ってみます。

 なお、千葉市民ではありませんが…すいません。貴重なデータの公開、ありがとうございます。

 今回は、太郎の居住地である都川水の里公園と千葉公園体育館、大宮学園のボーリングデータを選定し、比較検証しました。

 選定の理由は、ボーリング実施時期が新しいデータにしたかったことと、太郎を挟んで北側と南側の下総台地上のデータにしたかったからです。

いつもの断面図機能(地理院地図を加工)

 断面図を見ると、千葉公園体育館と大宮学園は下総台地上に、太郎は都川が台地を開析した低湿地に、それぞれ位置することがわかります。

 それでは、ボーリングデータの確認をお願いします。

千葉公園~太郎~大宮学園の断面イメージ(千葉市ボーリング柱状図に加筆)

 文字が小さくてすみません…標高はそろえてありますよ、当たり前ですけれども。

 下総台地上の千葉公園と大宮学園のデータは、極めて類似しています。

 地表から順に、約2万年前の最終氷期以降に堆積した沖積層の表土、約8万年前以降に堆積した比較的新しい関東ローム層(武蔵野ローム、立川ローム)が堆積しています。ここまでは、透水層ですよ。

 ※大宮学園の深度2.7~3.7mの腐植土は、沖積層関東ローム層か迷いましたが、今回のテーマの内容ではあまり本質的ではないので…悪しからず。

 

 関東ローム層の下は、関東平野一円の地下に広く分布する地層である下総層群(約45万年前~約8万年前)です。

 この下総層群の一番上に、常総粘土層があります。下末吉ローム層(約13万年前~約8万年前)に対比されるとおり、こちらも関東ローム層なのですが、難透水層です。激しい降雨でローム層の貯留量を超えると常総粘土層以深に浸透せず、地表が冠水し農作物に被害を与えることもあるなど、ちょっと厄介な地層です。

 常総粘土層より下の下総層群は、透水性の良い砂質土、つまり帯水層です。

 

 さて、太郎です。都川水の里公園のボーリングデータは大変丁寧なことに、沖積層の範囲まで記されています。この記述がなければ、常総粘土層を推定できないから、没ネタでしたね。

都川水の里公園のデータ(千葉市ボーリングデータを加工)

 これにより、深度16.10mの薄い粘土層を、常総粘土層と推定できました。

 したがって、3地点ともに帯水層(下総層群)の上を覆うように難透水層(常総粘土層)が広がるとともに、太郎の地表面より被圧地下水の動水勾配が高いため、前掲の自噴のイメージが成立すると推定できます。やったね。

 

 いかがでしたか?長々と書いてきましたが、例えば扇状地の扇端など、自噴自体は日本国内各地にありますよ。

 

(参考資料)

・関東土質試験協同組合ホームページ コラム「関東の地盤を知ろう!」第4回

 

 

高度成長期の川崎で起きた特異な地すべり、「灰津波」って?

 今回のテーマは、地形地質的要因と人的要因の両方が作用した災害です。関係者の方はご健在の可能性が高く、執筆には多少、ためらいもありました。

 しかし、災害を伝承する石碑などもなく、このままでは時間の経過とともに忘却の彼方に追いやられてしまうかもしれない、とも思いました。

 ですが、現地に足を運ぶと、災害の生き証人とも言える土木構造物が現存していました!

 インターネット上には、これに関連した情報はなく、大変驚きました。

 そこでレポートの公開範囲を、意図をご理解いただける“エグゼクティブ”な皆様に限定いたします。 

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戦国最大の山岳戦!? 「三増峠の戦い」を地形から読み解く

駿河侵攻を邪魔する後北条氏に、お灸をすえたのさ

 唐突ですが、三増峠の戦いはご存じですか?

 時は永禄12(1569)年10月、場所は現在の神奈川県愛甲郡愛川町三増周辺で、武田信玄後北条氏とが激突した戦いです。

 戦場となった愛川町周辺は、丹沢山地と相模平野の境にあたり、相模川支流の中津川が削り出した河岸段丘が発達しています。このように高低差のある地形を戦場とし、より有利となる高所への機動を伴うとともに、双方の損害が比較的大きくなったことから、「戦国最大の山岳戦」とも言われています。

 そもそも、信玄公と後北条氏はなぜ戦うことになったのでしょうか?

 これも詳しく書くと長くなりますが…。

 甲相駿三国同盟を天文23年(1554年)に締結した武田氏・後北条氏・今川氏でしたが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い以降、今川氏は弱体化してしまいます。

 これを機と見た信玄公は、今川領国を切り取ろうと同盟を破棄し、永禄11年から元亀2年(1568~1571年)にかけて駿河に侵攻します。しかし駿相同盟は維持されたため、甲相同盟は手切となりました。

今川領を、家康と分割することにしたのさ

 後北条氏牽制のため、信玄公は碓氷峠を超え、鉢形城(埼玉県寄居町)、滝山城(八王子市)と後北条氏の要害を攻撃しつつ南下し、本拠地である小田原城を4日間包囲したのち、甲斐へ帰ります。三増峠の戦いは、この帰路で生じました。

 「戦国最大の山岳戦」とも呼ばれてはいますが、この戦いの経過は、史料が少なく断片的に伝わるのみです。また、武田方も後北条方も、双方が勝利を主張しています。

 けれども、その断片的な情報と、戦場周辺の地形を読み解き、この戦いの詳細な経過を推察してみます。

 

戦い直前の状況(地理院地図を加工)

 小田原城包囲後、家路を急ぐ信玄公。厚木周辺から最短で甲斐を目指します。

 信玄公の今回の遠征によって痛い目にあった、滝山城主の北条氏照鉢形城主の北条氏邦兄弟は、武勇に秀でた玉縄城主(鎌倉市)の北条綱成とともに、三増峠付近の高所に陣取ります。

 信玄公が、峠を越えるとすぐの津久井城を攻撃すると踏んだからです。

  第四代当主北条氏政が直々に率いる、総勢2万とされる本隊は小田原城を出発しましたが、まだ戦場周辺には少し距離があります。

戦い序盤の布陣図(地理院地図を加工)

 平坦なところは白く、傾斜が急な所は黒く表現される傾斜量図に、布陣図を重ねてみました。

 迎え撃つ後北条軍は、三増峠へ続く街道を見下ろす高所に布陣します。

 対する武田軍は、部隊を3つに分けました。三増峠へ続く街道に布陣した本隊、戦場を迂回し志田峠に向かう山県昌景率いる別働隊、同じく迂回し津久井城を抑える部隊です。

 さて、戦場の地形についても少し解説します。ご覧の通り、志田峠、三増峠周辺は山がちな地形ですが、南側は比較的平坦な地形です。

 しかし、平坦地を流れる3つの沢や中津川の両岸は、急傾斜となっています。このような地形を、「田切地形」と言います。

田切地形はこうやってできた

 長野県南部の伊那谷が代表的(JR飯田線には「田切」と名の付く駅が2つもある)ですが、甲府盆地や諏訪盆地など、武田領には、田切地形がよく見られます。

 信玄公にとっては、戦い慣れた地形だということです。

 

 戦端を開いたのは、三増峠に向かうそぶりを見せた武田軍左翼の浅利隊と、これを阻止しようとする後北条軍右翼の綱成隊との交戦です。綱成隊の鉄砲によって、浅利信種は戦死し、現在その場所には浅利明神が祀られています。

 残りの武田軍は、志田峠に向かって西へ移動します。

 優勢に見える後北条軍ですが、綱成隊につられたのか、武田軍が退却していると判断したのか、高所から降りてしまいます。

後北条軍が直面する3つの田切地理院地図を加工)

 まるで堀のような田切を越えて追撃することは、後北条軍にとって少なくない犠牲が生じたと想像できます。追われる側の武田軍にとっては、越えた先に敵はおらず、多少の上下移動で済みます。しかし後北条軍にとっては、田切を越えるときこそ進軍速度が鈍り、武田軍の攻撃の格好の的となってしまうからです。

戦いの中盤の布陣図(地理院地図を加工)

 田切を越え、なおも追撃の手を緩めない後北条軍。武田軍本隊を、信玄公の座する本陣に向かって追い詰めているように見えます。

 しかし、志田峠に向かったはずの山県昌景率いる別動隊が峠で反転し、後北条軍左翼の側面を衝きます。

 形勢逆転、攻守が入れ替わります。

いつのまにか、武田軍が高所を占めている(地理院地図を加工)

 地形を敵に回した後北条軍は、田切に移動を妨げられ、山県隊に側面を襲われた左翼を救援できません。

 対する武田軍は、地形を味方にし、田切が寸断した後北条軍を各個撃破できます。

戦いの終盤の布陣図(地理院地図を加工)

 後北条軍左翼は、志田沢と深堀沢の田切によって退路を断たれた状況で、高所を占めた武田軍本隊右翼と山県別動隊による攻撃にさらされ、壊滅的な打撃を受けたのではないでしょうか。

 三増合戦碑の付近には、胴塚、首塚があり、後北条軍左翼にそれだけの戦死者が出たと推察できます。

三増合戦場碑から武田軍本陣を望む

戦いの終盤を描いたと思われる三増合戦場碑横の陣立図

 とはいえこの戦いは、地形を生かした機動戦の巧みさによって、武田軍が後北条軍に完全勝利した、というわけでもなさそうです。

 敵地から離脱できたとはいえ、浅利信種を筆頭に武田軍も少なからず損害を生じました。さらに、無傷の氏政本隊も近くにいます。

 戦いののち武田軍は、志田峠から10kmも離れた反畑(現在の相模原市緑区寸沢嵐)に集結しました。通例では戦場にて執り行われる首実検を含めた戦勝の儀を、この地で行いました。

 3200を超える首を洗ったと伝わる池の跡も、ここにはあります。

武田軍集結地の反畑は、田切で囲まれた天然の要害(地理院地図を加工)

 反畑は、相模川道志川によって形成された深い田切に囲まれており、仮に北条軍の追撃があっても安全な土地です。また、ここからは津久井城も見えます。

寸沢嵐から見た津久井城(写真中央のピラミッド型の山)

 武田四天王の一人、春日虎綱高坂弾正)の口述をまとめたとされる甲陽軍鑑では、この戦いの評価を、「御かちなされて御けがなり」(勝利したといえども、損害も受けた)としています。

 

 一方の後北条氏は、今回の武田軍の関東遠征によって、信玄恐るべし、と痛感したのでしょうか。

 2年後、武田氏と後北条氏は、甲相同盟を再締結することとなりました。

世にも珍しい、モノレールの廃線跡が大地に刻まれた場所って?

いまも存続していれば…

 地理院地図の陰影起伏図や傾斜量図といった、土地の凹凸を表現する地図を使うと、鉄道の廃線跡は比較的よくわかります。

廃線跡を活かしてサイクリングロードに(地理院地図を加工)

 鉄道は、鉄輪と軌道の組み合わせにより摩擦が少ないため、大量輸送が可能な代わりに勾配には弱いのです。そのため線路を建設する際は、切土や盛土で地形を改変し、勾配をできるだけ緩和します。

 しかし、地形を改変すればするほど、建設費は増加します。建設費を抑えるため、勾配に強い交通機関を求めるのであれば、摩擦の大きなゴムタイヤを採用したモノレールや新交通システムがよいでしょう。地形の改変が少なく済みます。

 ですので、土地の凹凸を表現する地図を使っても、モノレールや新交通システム廃線跡はあまりよくわかりません。

 そもそも、モノレールや新交通システム廃線跡、なんてモノにはなかなかお目にかかれません。これらは、都市計画の一部として建設される交通ですので、そうそう廃止されるものではありません。

なお、姫路市営モノレール桃花台ピーチライナー

 ところが、横浜市栄区鎌倉市の境界付近には、そんなレアもののモノレールの廃線跡が、はっきりと大地に刻まれています。見てみましょう。

お分かりいただけただろうか?(地理院地図を加工)

 切土によって丘陵部の勾配を緩和していることがわかります。ゴムタイヤを採用し地形の改変が少なく済むとは言え、限界はありますからね。それでも、このモノレールの最急勾配は10%(水平100mに対し10m上昇)あったそうです。

 これは、東海道本線大船駅と、廃園となった横浜ドリームランド遊園地とを結ぶ、通称ドリームランドモノレールの廃線跡です。全長約5㎞、開発企業の名を冠した東芝式を世界で唯一採用した跨座式モノレールでした。

正式名称「ドリーム交通モノレール大船線」路線図(地理院地図を加工)

 開業は1966年5月、運行休止は1967年9月となっており、運行期間はわずか約1年半です。これは運行開始後、車両にも構造物にも欠陥が発覚し、安全上の観点から運輸省より休止勧告が出たためです。

 欠陥の内容は、急勾配対策として当初設計より出力増 → モーター重量増 → 車体と構造物が耐えられない、だそうです。

 廃園後の現在も、地域住民の足として存続していれば、大船駅は跨座式と懸垂式、両方のモノレールが発着する、世界的に見ても稀有な駅となっていたのですが…惜しいものですね。

(懸垂式の湘南モノレールの開業は1970年と、ドリームランドモノレール休止後)

 

 

新宿から南アルプスが見えるって本当!?

本当に見えるの?

 

仕事が入ったのよね…     週末の山梨旅行は? 南アルプス見たいの!

 

南アルプス見たいなら、1000円あげるから、新宿に行っておいで

 という会話があったかは定かではありませんが、本当に新宿から南アルプスを見ることは、できるのでしょうか。

 ちなみに都庁第一本庁舎の展望台は無料です。

都庁第一本庁舎の展望台、ではなく第二本庁舎からの景色

 関東山地の稜線の向こうに、雪化粧した富士山が見えます。

 そしてよく見れば、視界の右端にも、白い何かが…

あの白いのは、雲?それとも山?

 方角からすると、荒川岳(最高峰の東岳の標高は3141m)のようです。

 地理院地図の断面図機能を使って確認してみましょう。

地理院地図より(断面図データはcsv形式で出力できます)

 高尾山の北の小仏城山(標高670m)付近や、富士山の北側の御坂山地に遮られることなく、新宿から荒川岳は見えることが断面図からわかります。

 しかし実際には、地球は丸いため、地平線より下は見えません。見たい地物との距離が遠いほど、その地物が地平線の下に沈む高さは増すのです。

地球は丸いので、地平線より下は見えない

 このことを考慮した断面図はこちらです。

遠くに行くほど、山は低くなる(地理院地図のcsv形式で出力したデータを加工)

 荒川岳は見かけ上、1000mも低くなってしまいましたけれども、なんとか見えるようです。

 新宿から南アルプスが見えて、よかったね!

失われた宗教都市に眠る「龍の瞳」 八菅神社の右眼池と左眼池

異世界転生モノかな…?

 まずは、関東平野のいったいどこに、失われた宗教都市があるのでしょうか。宗教都市ですから、なんらかの宗教の本山、聖地に成立した集落ですね。


 関東地方で代表的な宗教都市は、栃木県日光市でしょうか。世界遺産に登録された、日光東照宮日光二荒山神社、日光山輪王寺門前町として有名です。観光や修学旅行で訪れた方は多いでしょう。


 東京都内だと、青梅市御岳山地区を挙げたいですね。

東京都青梅市御岳山地区、山の上に集落が成立

 ここは、大口真神ニホンオオカミ)信仰で名高い武蔵御嶽神社の鳥居前町として、標高800mを超える山中に宿坊などが連なっています。

 交通手段は御岳登山鉄道ケーブルカーが一般的ですが、御岳登山鉄道HPのコラムによると、このケーブルカーは通勤通学の足としても利用される生活路線でもあるとのこと(定期券も販売されているらしいです)。山岳宗教都市を支える、不可欠なインフラですね。

 

 さて今回取り上げる、『失われた』宗教都市ですが、神奈川県愛甲郡愛川町八菅山地区にありました。

失われた宗教都市はココだ

 失われただけあって、どこに都市があったのか、現在の地図では分からないですね?
 けれども、見えてきませんか?都市の軸となる直線が。
 そう、八菅神社の参道が、本殿から中津川に向かって東南東に延びています。

 写真は、地理院地図にも表記のある参道の石段です。直線性を保つためか、かなりの急勾配となっています。


 西に広がる丹沢山系は、かつて修験者たちの修行が盛んでした。


 八菅神社一帯は、中世より関東有数の修験集落として栄え、江戸初期には京都の聖護院を総本山とする本山派修験の一大拠点となり、彼ら修行者たちの居住する院坊は50余りとなりました。


 しかし、幕末の神仏分離、明治の修験禁止令により修験者たちは還俗帰農しました。さらに、明治18年の大火や、戦後の住民の転出により、いまでは宗教都市の面影はありません。

修験集落の範囲(赤枠内) 50余りの院坊が立ち並んだ

現地の修験場跡要図  図下の大鳥居と中津川の間に院坊が並んでいた


 次は、『龍の瞳』ですね。

 八菅神社の座する標高225mの八菅山ですが、古くは蛇形山と呼ばれました。

 日本武尊が東征の際にこの山を眺め、龍に似ていることから命名したと伝わっています。

尾根(橙線)は、まるで龍のような蛇形山(地理院地図にツールで加筆)

 北西を尾、神社のある南東を頭とし、山全体が蛇になぞらえられました。

 頭に当たる神社周辺には、都市の軸となる参道の石段を中心線とし、左眼池、右眼池、鼻池、口池、舌畑といった地名が残ります。先ほど挙げた、修験場跡要図にも記載があります。

 「龍の瞳」、右眼池と左眼池の写真はこちらです。

右眼池

左眼池

 両池とも、集水地形に位置し、池の底はぬかるんでいました。梅雨時期など地下水位の高い日であれば、ちゃんと池になっていると思われます。

 両池が大切にされていることがわかります。

 

 ここからは、おまけです。

 神社の周辺は、愛川町立八菅山いこいの森となっています。

 アスレチックに、お花見広場、展望台、もちろん駐車場もありますよ。

お花見広場のアスレチック

眺めの良い展望台

もうひとつの「震生湖」 相模原市緑区鳥屋の地震峠

 2023年は関東大震災(1923年大正関東地震)から100年と、節目の年になります。

 地震は、しばしば地形の大きな改変をもたらします。この地震に伴う地すべりにより形成された堰止湖として、神奈川県秦野市中井町にまたがる震生湖は有名です。

震生湖はこうしてできた(地理院地図に加筆)

 

 震生湖から、阿夫利神社の鎮座する大山を挟んで北へ約20㎞、相模原市緑区鳥屋も、この地震で地形が大きく変わりました。

地震峠の位置(地理院地図にツールで加筆)

 自然災害伝承碑のある、県道513号線の小さな切通しが地震峠です。

現地の案内板

自然災害伝承碑(大震殃死諸精霊)側から見た景色

 写真の通り、案内板の下にはパンジーが植えられ、自然災害伝承碑に至る小径は掃き清められていました。震生湖では2名の小学生が、地震峠では16名の方が亡くなっています。訪問の際は、ぜひ碑にご参詣ください。

 

 南側斜面の土砂が、地震による地滑りにより谷側に移動し、小さな峠ができました。県道の切通し両側の土砂は、地震前にはなかったものです。

地震峠はこうしてできた(地理院地図に加筆)

 案内板によると、元々は県道の南側を流れていた串川が堰き止められ、上流500mくらいまで湖のようになった、とありましたので、地理院地図の機能で再現してみます。

もうひとつの「震生湖」(地理院地図より)

 「上流500mくらいまで湖になった」ことから、色別標高図の機能を使い、この湖の水面標高を262m付近と推定し、それ以下を青色に指定しました。

 つまり、青色が湖の推定範囲です。面積は約5ヘクタールと、震生湖の4倍弱あります。

 もちろん、この湖は現存しません。一般的に不安定土砂による堰き止めは、自重や越流により容易に崩壊してしまい、残存が困難なためです。

 堰き止めが長期間残存し、「現存する堰止湖」である震生湖は、やはり意義深い例であり、2021年には国の登録記念物に指定されました。